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「ヤワな優しさを捨て、野生を取り戻せ。国の理不尽に本気で怒るのも<新しい生活様式>」

 北野 武

 

浮かれるにはまだ早い

 今年も半分過ぎたけど、もうコロナ一色で塗り込められちゃった印象だよね。今まであんなに警戒しまくってたくせに、緊急事態宣言を解除したら「日本モデルが成功」「経済を回そう」なんて浮かれてるじゃない。でもワクチンが開発されて世界中に行き渡ったわけでもないし、今だって南アメリカやアフリカで感染拡大が進んでるわけで。ブラジルなんて貧困層が何万人も犠牲になってる。世界中、誰かがコロナで死んでるんだもの。それで喜んでちゃマズいよ。元気な時は「グローバル」とか威張っててさ、いざ危機になったらテメエのことしか考えてないじゃない。

 

 今、中小企業や自営業者、非正規労働者、フリーランスが困ってるよな。じゃんじゃんカネを投入すべきなのに、国はビタ一文出すもんかって顔をしてる。だから俺としては、小康を得てるだけの日本の現状なんか素直に喜べないんですよ。だってね、志村けんさんを助けるために最先端の医療を施したはずでしょ? なのに手に負えず、志村さんは亡くなってしまった。俺があのニュースでこたえたのは、「人類はまだ新型ウイルスに敵わない」という事実なの。

 

 歴史をひもとけば、人類は疫病による滅亡の危機を乗り越えて生き延びてきたってことがわかる。ペストやスペイン風邪も長らく人を脅かしていたわけでさ。狂犬病なんかも撲滅に至ってない。それら病気の流行期には、これで人類も終わりかってくらいに犠牲を出した。コロナだってまだ健在で、これからどういう脅威になるか不確定要素が多い。だから、みんな油断して浮かれてちゃダメだと思うんだ。

 

変わるお笑いのあり方

 テレビや映画、小説までいろいろな仕事をやってきた俺が感じるのは、「ウィズ・コロナ」なんて気軽に言えないということ。世界を変えてしまうような病気が存在するって緊張感があるからね。芸術は素晴らしいと言うけど、今回、何にも増して生命というものがどんなに価値があるのかってことを考えさせられた。俺が夜中に小説を書き、絵を描いてる間に亡くなってる人がいる、と考えるとやりきれなくなったものね。

 俺がテレビをリモート出演に切り替えたのは、自分が罹るのはしょうがないけれど、他人に伝染してしまうのがつらいからなの。PCR検査だって、感染が濃厚に疑われて症状が進んでいないとできない。抗体や抗原検査もすぐに受けられるわけではないでしょ。それを待ってたんでは、始まらないじゃない。だったら「自分は陽性なんだ」という前提で生きていこうと考えたんです。

 

 だけど、世の中はどうも逆で、「俺は大丈夫」というやつが多いんだよね。人間は大変な時には己の都合のいい意見に飛びつくって聞いてたけど、本当にそうだった。それも嫌になっちゃうことだったかな。

 これも仕方がないと諦めてるけど、リモートってのはやりづらいね。どこに目をやればいいかわかんないしさ。客や共演者、スタッフの反応を見て演じる仕事なんで、ウケてるかどうか判断できないから困る。それにディレイ(遅れ)が生じてリアクションがズレちゃうから、演(や)ってて歯がゆいんですよ。

 

 今回のコロナは長引くから、笑いも必然的に変化するね。漫才もテレビで見てると相方との距離は取るわ、間にアクリル板を置いておくわで大変じゃない。おまけにリモートで無観客だったり、ライブを演ったとしても客はまばらに座らせたりするでしょ。

 掛け合いの面白さは漫才師の距離感によって生まれる芸。おまけにツッコミは客の反応を瞬時につかまえてやる技なわけ。だから今、漫才はいわば手足をもがれた形になってるの。そうなるともう、二人で演る芸は難しい。必然的にアメリカ形式の、一人で漫談を披露するスタンダップコメディに流れていくと思う。

 アメリカのコメディ映画のスター、「ローレル&ハーディ」や「アボット&コステロ」が喜ばれたのは、禁酒法や戦争の余波で劇場の入りが減ってしまい、映画で魅せるコンビ芸以外、成り立たなくなったから。時代背景によって求められる笑いの形式も変化する。60年代後半にはレニー・ブルースって毒舌家が全米で人気だったしね。

 

リーダーに求めるものは

この雑誌が出る頃には都知事選の結果も出ていると思うけれど〔編集部注:取材は2020年6月〕、コロナの間の小池(百合子)さんはまったくダメだった。まず、東京オリンピック開催延期が決まるまで、都民に「大丈夫だ」ってばかり言ってたじゃない。で、あの若い(鈴木直道)北海道知事が緊急事態を宣言して、流行の危機だとか専門家会議や政府が口にし、オリンピック延期が決まったら、「危ない」って言い出した。それは掌返しがすごすぎるだろって(笑)。

 

 昔のナンセンストリオのコントじゃねえんだからさ。「赤上げて、白下げて、白上げないで赤下げる」って演ってたやつ。政治でやられちゃたまらないよ。それにあの柄付きマスクや“三密”ってフレーズ、そういうことで目立とうとしてどうするんだろうね。

 

 ドイツのメルケルさんとかニュージーランドのアーダーンさんたちはコロナ感染拡大の説明と対策がしっかりしてた。言葉には行動力が伴うべきってのを教えてくれたね。ま、フィリピンの大川栄策さん……じゃなかった(笑)、ドゥテルテ大統領みたいに「隔離措置に違反したら射殺するぞ」っていう言行一致はおっかないけどさ。ブラジルの大統領、ボルソナーロはひどいけどね。「人間はいつか死ぬもんだ」って、お前は休みに豪遊してるじゃねえかって。(笑)

 

 日本の政治家もよその国を笑ってられないよ。小池都知事だけでなく安倍(晋三)首相や大臣、与野党議員も揃ってひどい。マヌケの集まりに見えたもん。国民全員から消費税を巻き上げておいて、あんなケチくさいマスク配ってる。笑っちゃうのは安倍さん以外、与党の誰もアレつけないんだよ(笑)。そんなのに466億円出すんなら、生活困窮者に小切手でも送ればいいのにさ。人種差別抗議デモに軍隊を呼ぼうとしたトランプ(大統領)ですら、小切手配布したんだよ。

 

 野党も必死で闘えよと思ったね。緊急事態宣言を解除してもまだ内閣は倒れないし、みんなでのん気にやってる。第二波に備えて自粛要請したらどう商売をやっていけばいいのかとか、残業してでも委員会でガイドラインを決めておくべきなのに働かないんだもん。ほかの国だったら暴動だよ。なんてお行儀のいい、優しさに満ちた国民に恵まれたんだと、政治家は手を合わせて感謝しろよって思うね。

 

 日本で俺らが「ツービート」で漫才を演ってる時代には、トム・ハンクスやエディ・マーフィなんかがピン芸人としてライブで喋って人気を得ていたの。きっと日本もそういう流れになってくるよ。寂しいなんて言ってらんない。これも自然淘汰かもしれないし。

 

「新しい生活様式」とは何か

しかし、「新しい生活様式を」なんて、いきなり国に言われてもね。それを言ってるのがイヤイヤ人助けするような連中だから、「まず、お前らがやってみせろよ」としか言いようがない。逆に国民が国の理不尽に本気で怒ってみるのも、「新しい生活様式」なのかもしれないね。だって、優しすぎるもの。

 

 いつから「優しさ」ってことに世間は価値を見出しちゃったんだろうね。本来なら優しさは素っ気なく見せるもんだったはず。今じゃ「ほら、親切だろ」って押しつけてみせるじゃない。みっともないよ。優しいってのは、本当に思う相手へ厳しく接することもあるんで、わかりにくいんだ。これみよがしの優しさに心動かされることを「ヤワになった」と思わないんじゃ、ダメだね。

 俺は、感性から変えないと「新しい生活様式」とは言えないと思ってる。リモートだのステイホームだのは格好だけで、本質は変わらないんだもの。俺が最近思うのは、「野生」の感性ってものが日本からなくなりつつあるということ。新しく出した『不良』って小説で伝えたいことの一つは、その「野性」についてなのかもしれない。

 作品に出てくるキーちゃんはワル。ジャングルの野獣みたいに、自分の知恵と力でトップを取るためなら殺し合いを望むタイプで、中学の入学式でいきなりケンカをふっかける。そういう「野性」を持ってる人間は馴れ合いばっかの社会から疎外されるよね。それを総じて市民社会が「不良」と呼ぶわけで……。

 そんな「野性」を持ったキーちゃんにはモデルがいるんですよ。俺が通ってた足立区立第四中にいた、今では絶対に出会えないタイプの男でさ。ただケンカが強いだけじゃない。野球ならイチローとか大谷翔平、ボクシングならモハメド・アリみたいなクラスなんだよ。彼を見た瞬間に、伝説のアスリートを間近で見る思いがした。俺がどんなに頑張っても敵わないやつ。

だけど、彼は俺が大学生の頃にあっけなく死んじゃった。それからずっと、キーちゃんを描きたいと考えてきた。

 

バカはズルより数段エラい

 小説のキーちゃんは何にも縛られない少年時代なら輝いてるわけだけど、いざ大人社会に放り込まれると浮いちゃう。野獣には居場所がないんだ。それが力では絶対的に食物連鎖のトップに立てるはずの、アウトローのヤクザ社会であろうとね。ヤクザの世界には掟があり、裏切りがある。キーちゃんは考える前に飛んじゃうタイプだから、長生きできないとハナから周りも知ってるわけ。

 

 パッと死ぬのが彼だけならいいけど、語り手の「俺」や仲間の連中はキーちゃんに憧れてヤクザになっちゃう。憧れで道を誤るってことは実人生にもあるよね。俺だってキーちゃんを慕ってヤクザになってたかもしれないもの。でも、凡才は天才にはなれない。

 それと同じで、小説の中のバカは、なれるはずのないキーちゃんのマネをして死ぬ目に遭うんだ。でもね、バカはバカなりに純粋で、ズルく立ち回るより数段エラいと思うわけ。現代社会なんて小器用な連中が得をするだけ。バカがなけなしの「野性」を使って人生を爆発させるのは、自滅的だけど、今必要な感性なんじゃないかな。小説を書くって、頭に浮かんだ場面を字にしていく作業。会話や描写に困ってウンウン唸って書いてる。つらいけれど、夜中から朝まで夢中で続けてしまうんですよ。書き上がった小説はうまくない。でもそれでいい。すごく読みにくくても、必死で書いてる俺の熱量が行間から伝わってくれるなら、そのほうがありがたいものね。

 絵も映画も小説もうまくなりたくないっていう大もとは、俺が芸人で、いまだに舞台に立つ前に「ネタは大丈夫か。ウケるかな」ってなことで震えちゃうのと繋がってるのかもね。俺にとっての「新しくもない生活様式」は緊張感を失わずに生きること。ま、そんな感じでヨロシク。(笑)

 


 ◇ 自粛警察

「普通の人」がなぜ過激化するのか<歪んだ正義>(1)

配信

毎日新聞

筆者が米兵と同乗していた特殊装甲車はタリバンの爆弾攻撃を受けて大破した=アフガニスタンのパクティカ州で2009年6月、大治朋子撮影

 ◇「自粛警察」はもともとある敵意や差別感情の現れ  マスクをしていない人を激しく叱責する。政府の自粛要請下で地元以外のナンバーの車を傷つけたり時間を短縮して営業する店に嫌がらせをしたりする。中国人が経営する店やその関係者をSNS上で中傷する。

 新型コロナウイルス禍に現れたいわゆる「マスク警察」「自粛警察」現象は、人間の攻撃性を顕在化させた。 「人を傷つける心―攻撃性の社会心理学」(サイエンス社)などの著書がある大渕憲一・東北大学名誉教授(社会心理学、現・放送大学宮城学習センター所長)によると、「災害や犯罪などによって社会不安が高まると、それに伴い人々の間で生じる不快感情が攻撃性に転化されやすくなる」という。  

もともと他の集団や民族に対して敵対的な、あるいはマイノリティーに対して差別的な態度を持っている人でも、冷静な時はそれを不合理なものとして自制することができる。ところが不安や恐怖が高まっている時には「認知資源の不足などからこうした抑制力が低下し、敵意や差別感情が噴き出しやすくなる」という。社会が不安定な時には敵意や差別感情を「正当化」する理由を見つけやすくなり、また周囲の人々からの支持が得られやすいと感じて抑制力はいっそう低下しやすくなるというのだ。  

◇「自分は絶対に正しい」と思い込むと、人間の凶暴性が牙をむく  

人間の攻撃性といえば、最近はSNSを舞台とした言葉による暴力が過激化している。性被害を実名で告発したジャーナリストの伊藤詩織さんを中傷したSNS上の書き込みは70万件にも達し、人気番組「テラスハウス」に出演していた女子プロレスラーの木村花さんもSNS上で激しい攻撃を受け、亡くなった。  

また近年日本では、 ローンウルフ(一匹オオカミ)による通り魔や襲撃事件が増加傾向にある。治安問題を研究する公益財団法人「公共政策調査会」(本部・東京都千代田区)が2019年3月に発表した東京五輪の治安対策に向けての提言書によると、国内におけるローンウルフ型のテロ類似犯罪は増加傾向にあり「未然に探知し防ぐのが難しい」という。さらにその脅威は「すぐそこに差し迫っていると認識しなければならない」としている。  

19年7月、「京都アニメーション」第1スタジオ(京都市伏見区)にガソリンをまいて放火し70人を死傷させた青葉真司容疑者(42)による事件は記憶に新しい。青葉容疑者は「京アニに小説を盗まれた」とまるで自分が被害者であるかのように訴え、犠牲者への謝罪は今もって口にしていないという。

 16年7月に起きた相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」への襲撃事件でも元同園職員、植松聖死刑囚(30)は裁判で「意思疎通が取れない人は社会の迷惑」「殺した方が社会の役に立つ」と語った。障害者という「負担」を抱える社会を救済したとでも言わんばかりに殺害の正当性を訴えた。  

こうしたローンウルフによる事件は一見「自粛警察」やSNS上の過激な攻撃とは無関係のように見えるが、いずれの当事者にも通底する思考が垣間見える。自分や自分が帰属意識を抱く集団を「絶対的被害者=善」と見立て、「絶対的悪」である他者への攻撃を正当化するという「歪(ゆが)んだ正義」だ。「自分は絶対に正しい」と思い込んだ時、人間の凶暴性が牙をむく。  

◇「あなたは、自分がテロリストになることもありうると思いますか」

 私が人間の攻撃性に関心を抱いたのはイスラエルの大学院で受けた授業がきっかけだった。13年春から4年余りエルサレム特派員を務めた私は日本への帰任を前に仕事を2年間休職してイスラエルの大学院や併設のシンクタンクを拠点に研究生活を送った。  イスラエルといえばその占領地・パレスチナに住む人々への強硬な対応で知られる。私は留学1年目、イスラエルの中でも最も保守的で、「テロ対策」に関する研究で世界的に知られるヘルツェリア学際研究所(IDCヘルツェリア)の大学院に進学し「テロリズム対策・国土安全保障論(サイバーセキュリティー専攻)」を学んだ。特派員時代の取材でイスラエルの「テロ対策」には学ぶべき点とあしき手本とすべき点が混在しているように感じ、その最先端で知見を広げようと考えた。  懐に深く入ってこそ取材対象の「素顔」は見えてくる。イスラエルの「素顔」を見たいとの思いからの決断だったが、パレスチナの人々すべてを「テロリスト」よばわりするような差別と偏見に満ちた授業ばかりではいたたまれなくなる、と内心危惧していた。だが授業ではむしろ私自身が無意識のまま抱えてきた偏見や思い込みを自覚することになった。  

進学した大学院のプログラムは1学年150人余りで約4割が米国系ユダヤ人、約3割が欧州系ユダヤ人、3割弱がイスラエルのユダヤ人で、それ以外はアフリカ系が男女ひとりずつ、アジア系は私ひとりだった。大半は20~30代で米国からは米軍のエリート、陸軍士官学校(ウェストポイント)と米議会から女性2人が公費で派遣されていた。イスラエルからは国防総省や首相官邸の幹部候補のほか私と同じ50代の警察・爆弾処理班元トップと現職トップもやはり公費で来ていた。  

「あなたは、自分がテロリストになることもありうると思いますか」  イスラエル軍兵士の心理的危機管理を担当してきたという元軍幹部の博士(心理学)が「テロリズムの心理」という授業の冒頭、私たちにそう尋ねた。受講生の約半数が「ありうる」と答え、残る半数が「ありえない」と答えた。「絶対ありえない」。私はそう直感したので、多くの生徒が肯定的に答えたのにはむしろ驚いた。  博士の言葉を聞いて浮かんだのはワシントン特派員をしていた09年春に経験したある事件だった。アフガニスタンに駐留する米陸軍の部隊に1カ月ほど従軍取材した。米兵らと村から村へと移動していたある日、乗っていた軍用車がイスラム原理主義組織タリバンの爆弾攻撃を受けて大破した。同乗していた米兵4人と共に奇跡的に命を取り留めたがテロリズムの脅威を文字通り肌で実感した。そして地元の女性や子供すら手にかけるタリバンの「狂気」に強い憤りを感じた。だから博士の問いかけにも「あんなことを私がするわけがない」と感じたのだ。  

だがこの確信は、研究を進めるにつれ徐々に崩れていくことになる。  博士はさらに衝撃的な言葉を口にした。  「テロリストの頭の中を考えるには、まず普通の人々の頭の中を考える必要がある。そうしていくと、大半の人は状況さえ整えばテロリストにさえなりうるのだということが分かる」  彼は自分たちユダヤ人も含め、誰もがテロリストになりうるのだと断言した。その根拠として見せたのが一本の動画だった。  

◇監獄実験が顕在化させた人間の攻撃性  

米スタンフォード大学のフィリップ・ジンバルドー名誉教授(心理学)が行った、有名な「監獄実験」の撮影フィルムだ。1971年、ジンバルドー名誉教授は24人の中流階級の米国人学生を対象に12人を看守役、残りを囚人役にした。囚人役は囚人服を着せて足をつなぎ番号で呼ぶ。看守役はアイコンタクトをしなくてすむようにサングラスの着用が認められ、制服や笛、警棒、鍵を渡されて「囚人に何をしてもよい」という支配権も付与される。

その結果、実験は想定よりかなり短い6日間で終了せざるをえなくなった。看守役が予想以上に残酷な行為を繰り返し始めたからだ。  囚人にろくに食事を与えず頭巾をかぶせて鎖でつなぎ、トイレを手で掃除させた。36時間後にはひとりの囚人が急性のうつ状態になり、解放せざるをえなくなった。ジンバルドー名誉教授は「ごく普通の人が状況次第で悪魔にもなる」と分析し、人間が持つ攻撃性の普遍性を指摘した。倫理的観点からこのような実験はその後行われていない。それもあり、たまたまこの実験の参加者が異常な集団だったのではないかと感じる人もいるかもしれない。だが実験で起きたことをまさに再現したかのような事件が現実に起きている。

04年に発覚したイラクの首都・バグダッド郊外のアブグレイブ刑務所におけるイスラム教徒への虐待事件だ。看守の米兵らはこの実験結果以上に残酷な虐待を行った。  動画が終わると米陸軍士官学校から来ていた女性士官が手を挙げてこう語った。「私はイラクでアブグレイブ事件の調査に実際に関わっていました。具体的なことは言えませんが、刑務所にいた兵士すべてが残虐な行為をしたわけではありません。ごく一部がやったことなのです」  

◇過激化する人としない人の違い  

先の大渕名誉教授はその論文「無差別テロの心理分析」の中で次のように述べている。「テロ事件を起こす人は特殊な思想信条の持ち主、あるいは偏った性格・異常な心的状態にある人であるとの特異心理仮説に基づく研究が中心だったが、近年は、先進諸国からIS(筆者注:過激派組織『イスラム国』)に参加する若者、ホームグロウン・テロリスト、ローンウルフ型の増加などを背景に、誰でもが状況によっては過激主義に陥り、テロ事件に関与するようになりうるのではないかという一般心理仮説に基づく分析が主流になりつつある」  

私たちは誰しも攻撃性を持っている。それを過激化させるとテロリストにさえなりうるのかもしれない。だが一方で、紛争地を長く取材して感じてきたことがある。同じような極めて重い社会経済的ストレスを受けてもその攻撃性を過激化させる人はほんの一部で、大半の人はそうはならない。紛争地に限らず日本社会においても日常のストレスなどから会社や学校、SNS上で陰湿ないじめやハラスメントをして他者を攻撃したり「正義」を振りかざしたりする人がいるが、大多数の人はそこまではしない。 だとするとその攻撃性を過激化させてしまう人とそうならない人の違いはどこにあるのか。過激化する人には何があり、あるいは何がないのか。そこに通底するメカニズムはあるのか。  

私はこの疑問を出発点に研究生活を始めた。【編集委員(専門記者)・大治朋子】


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